パットの憂鬱


 パットが入ればその日はハッピー。

 逆に、パットが入らなければその日は暗黒の一日となる。いや、冗談はなく、その日パットが入らなかったがために、帰り道で自殺してしまった人が本当にいるくらいである。ロングパットが入った喜びで、あるいはショートパットが外れたショックで、グリーン上で比喩ではなく本当に心臓が止まってしまった人も数知れない。グリーンはそのホールの終着点であり、更に言えばカップは集大成である。そこにはそのホールで起こった数々のドラマが集約される訳であり、それはあたかも人生の節目。入学試験、あるいは結婚式のごとし。それをミスれば後々まで尾を引くところまでそっくりだと言ったら言い過ぎか?

 兎に角、ゴルフはやればやるほどパットに尽きる。故にゴルファーは、上手くなればなるほどパットに情熱を傾ける。プロなどはショット練習以上の時間をパット練習に費やすのは常識なのである。

 ところが、パットという奴は面妖なことに、練習すればしただけ報われるショットと違って、時に練習しただけ下手になったりすることもあるのだから困る。場合によっては練習し過ぎていわゆる「イップス(ショートパット恐怖症)」を発症してしまうことさえある。

 なぜそんなことが起こるのだろうか。理由は幾つかあるが、パットがあまりにも感覚的なものだからであろう。例えば、数メートルのパットを打つ場合、その距離感をどうやって合わせるのか?そう聞かれても誰も答えられない。プロだって、いや、プロだからこそ答えられない。「勘で」というしかないのである。

 だからむしろ理論的にゴルフを捉え、きちんと練習をし、完璧なゴルフを追及しているプレーヤーほどパットの陥穽に陥り易い。酷くなると「1cmのパットと300ヤードのショットが同じ打数だというのがどうしても許せない!」と叫んでゴルフを辞めてしまったりする。ジャック・ニクラウスの本に「私はパットの打ち方を毎回変えている」などと信じ難い事が書いてあるが、それぐらいに捉えていた方がパットの真実に近付き易いと思う。

 ラインもタッチも完璧であったパッティングが、ほんの僅かな芝の気まぐれで外れてしまうのがパットというものなのである。それでいて数ミリの打ち出しの狂いが重大な誤差になるほどの精密さが必要になってくるものパットだ。完璧を尽くしてなお報われないこの事実を唯受け入れるしかない。ゴルフはよく人生に例えられるが、特にパットの不条理さは人生そのものだ。

 パットの名手には幾つかの共通点がある。

 まず、パットを打つ際に迷わない、ということであろう。ラインを読み、構えたら、ラインと自分のストロークを信じて唯打つ。これが出来ないプレーヤーのなんと多いことか。というか、出来るプレーヤーの方が少ない。打つ瞬間までうじうじ迷っているようでは、まぁ、そのパットは八割入らない。

 パットの名手はイメージ作りが上手い。ラインとタッチのイメージを、あたかもグリーン上で幻視するかのごとくイメージ出来る。つまり、打つ前にイメージで既に打っているのであり、本当に打つ場合にはそれを再現するだけだ。

 技術的な観点から言えば、一部の例外を除いてグリッププレッシャーが非常に柔らかい。身体をあまり屈め過ぎず、ラインを高い位置から見ている。ややオープンに構える例が多い。ストロークがゆっくりである。バックスイングとフォロースルーが常に等間隔である。などが指摘できるが、これを真似したってパットが入る保障は全然無い。

 それよりも、確実にパットが入るようになる方法は無いものか?あるなら私が実践してプロになっとるわい。ちなみに私は、幼児が打ったって入りそうな1.5mくらいのパットが、夢に見てうなされたことがあるほど嫌いである。



TOP